vol1

宮里藍は
強くて優しいパイオニア、
信念の人だった

文/舩越園子
(在米ゴルフジャーナリスト)

LPGAツアー参戦初年の2006年、日本女子プロ選手権参戦のため帰国し優勝

あれは、2005年の秋だった。フロリダ州デイトナビーチで行われた米LPGAのQスクール会場には、総勢60名近い日本メディアが詰め寄せ、その場は“アメリカの中の日本”と化していた。その中心にいたのが、まだあどけなさの残る20歳の宮里藍だった。

これまでも、日本人選手が鳴り物入りで米国にやってきたときは、大勢の日本メディアが押しかけ、“アメリカの中の日本”が形成されたことは何度かあった。

だが、宮里を核として膨れ上がっていたその渦の中には、これまで一度も感じられなかった異質の空気が溢れていた。しばらくの間、その空気がどう異質なのか、なぜ異質なのか、わからないままに、私自身もその渦の中に入り込んでいった。

Qスクール初挑戦にも関わらず、宮里は2位に12打差を付けて堂々のトップ通過。米ツアー出場権をあっさり手に入れた。そして年明けとともに米ツアーに挑む日々を送り始めると、テレビ、新聞、雑誌、ウェブに至る日本メディアが現地で密着取材を開始した。

過去の例を振り返れば、米ツアー挑戦を始めた日本人選手に対する取材攻勢は、いつも一過性で終わっていた。最初の数試合で初優勝が達成されないとなると、日本メディアの大半が一気に引き上げていくのが常だった。

しかし、宮里の場合は、勝てない日々が続いても密着取材は続行された。いいときも悪いときも、大勢の日本メディアが彼女に寄り添い続けた。それは、私が知る90年代以降の米ゴルフ界で初めて起こった現象だった。

初めて起こった現象は、それ以外にもあった。宮里を見つめる人々の視線は、彼女のゴルフに留まらず、ファッション、お化粧、ちょっとした仕草や口にする言葉の1つ1つにも向けられていった。彼女の笑顔や涙に共感し、優勝争いとなれば、自分のことのようにドキドキ胸を高鳴らせ、興奮し、落胆し、もらい泣きもした。

そう、彼女はプロゴルファーでありながらアイドルのようでもあった。ゴルフの優れた技量のみならず、人間として女性として、たくさんの魅力を併せ持っていた。そんな偉才が日本のゴルフ界から現れたこと、プロゴルファーが国民的アイドルにもなりうることを日本人として初めて実証したのが宮里だった。

その意味では、「藍ちゃんブーム」が起こっていなかったら、その後、日本のゴルフ界では他選手のブームも起こっていなかったかもしれない。宮里を米ツアーで追いかけ続ける密着取材が長期に渡って行なわれていなかったら、他の日本人選手に対する密着取材も、男女を問わず、今も行なわれていなかったかもしれない。

将来有望と目された日本人選手が、日本でキャリアを重ねずして毅然と太平洋を越えていく。日本人プロゴルファーとしての世界への新しい挑み方。宮里はその手本を示し、他の女子選手たちも、そして男子選手たちも、彼女に追随する形になった。宮里は男女の壁を越え、日本ゴルフ界の若い力を世界の舞台へ導く牽引役となったのだ。

積極的に英語を学び、米メディアのTVインタビューにも早いうちから自力で挑んだ。「何て聞かれたのか、半分もわからなかった」と笑い飛ばしつつ、その後はさらなる努力を積んでいた。そんな宮里は世界へ踏み出す外国人選手みんなのロールモデルになった。

スポットライトを浴びる一方で苦難にも遭遇した。2007年にスランプに陥ったときは、ずいぶん苦悩し、泣き暮らした日々もあった。だが、父・優氏から「ゴルフだけが藍の人生ではない」と言われ、「それで救われた」。それからの彼女は、プロゴルファーとしても女性としても一層魅力的になっていった。

ロサンゼルス郊外のコーヒーショップで宮里と向き合った2008年夏の単独インタビューは、私にとっては忘れがたき生涯の思い出になった。スランプからやっと抜け出し始めた時期だったが、あの日の彼女は、自分にとって一番大切なものを見つけたような、悟ったような、そんな表情をしていた。

そのせいだったのだろう。話題はスランプの話から女の幸せ談義へと発展していった。ツアーから引退して結婚生活を謳歌したいと宣言した、かつての女王の話。プロになった当初から「30歳ぐらいになったら引退して結婚して母になる」と心に決めていたメキシコ人選手の話。宮里は「本当に漠然とだけど、30歳代前半ぐらいに子供がほしいなあって思う」と、幸せを夢見る女性の顔で静かに語った。

だから今年、彼女が32歳で引退を決意したと聞いたとき、プロゴルファーとしては早すぎる引退だとしても、あの日の会話を思い出せば、彼女が思い描く新たな人生を歩み出すタイミングとてしては、むしろ遅いぐらいなのかもしれないなと秘かに頷いた。

宮里には、いつも信念がある。何をするときも、信じる道を切り開き、突き進み、いろんな扉を開いてきた。そうすることで、彼女を見つめる大勢の人々の勇気となり、光となってきた。彼女は、そういう存在だった。

そして、自らのプロゴルファー人生に終止符を打つことにも毅然と意志を貫き、最後まで自身の在り方を変えなかった。 そう、宮里藍は強くて心優しいパイオニアであり、信念の人だった――。

舩越園子

在米ゴルフジャーナリスト。
1993年に渡米後、現地で取材を重ね、日本のさまざまな媒体に記事やコラムを執筆している。